具象と抽象

 

形而上という言葉を検索していて以下のページにたどり着きました。

『読む美術館』
http://www.riasark.com/yomubi/supplement/supplement1.html

「具象と抽象」
具象とは「目に見えるかたち・見たままのかたち」といったような意味を持っています。
また抽象とは「広く共通性を持った要素を抜き出すこと」といった意味があります。
例えばニワトリ、すずめ、ペンギンをその特徴がわかるように見たまま表現することを「具象表現」と言います。
また鳥という共通性、例えば2本足、翼がある、クチバシ、飛ぶ…等の要素だけを抜き出して表現すれば「抽象表現」された個別性のない「鳥」の姿、つまり「鳥とは!」というかたちが生まれます。それぞれ個別に抽象化することもできるでしょう。
ペンギンならば色や形など特徴的な要素だけを抜き出して表現することも抽象表現です。

~中略~
具象表現は具体的なものを表現していますが、それが何であるかを説明するために形をそのまま表現しているわけではありません。
例えば戦場で泣き叫ぶ子供の姿を写した写真があるとします。
その写真がうったえようとしていることはなんでしょう?
「子供が泣いている」という目に見えることだけでしょうか?
具体的なものが描かれていたりしても、そこで語ろうとしていることは形のない思想や概念であるということは、実は普通のことです。
私たちが感じることや考えることには形が無い、形では表されていないこと、つまり形而上的なことのほうが多いのです。
ですから抽象表現も具象表現も実は表現しようとする内容の上で大きな違いは無いのです・・・・

・・・とここまで読んでフッと腑に落ちるものがありました。それは

私たちは戦場で泣き叫ぶ子供の写真を見て、戦争の悲惨な物語を紡ぎだす。
と思っていますが、実はそうではなく、もともと自分の中にある「戦争は悲惨だ」という物語にあわせて写真を解釈しているということです。
順逆がさかさまです。

私たちが自分の目を通して見ているものはすべて具象です。具象であるがゆえにそれは真実だと思っています。あるいは客観だと思っています。
しかし網膜に写った画像が脳に送られるなかで、バイアスがかかり自分のストーリーにあったものに脚色されていきます。
この脚色から私たちは逃れることはできません。
なぜならその脚色のなかでずっと生きてきたからです。

ただ逃れることはできないが、勘定に入れることはできます。
自分が見ているもの感じていることは、自分色に脚色されていると勘定に入れて判断することは可能です。

・・・ここまで考えがいたった時に
内田樹さんの著書にある『構造主義というのは(・・中略)ある種の知的な構えのことである。どういう構えか、一言で言うと「自分の判断の客観性を過大評価しない」という態度です』の一文とぴったり符合したように思え腑に落ちたのです。
もちろん内田樹のハードリーダーである私には内田樹や構造主義というバイアスがかかっていることを勘定に入れねばなりません。

y.ishii